インターネットあっちこっち

おじさんが、水族館や動物園に行ったり、そのへんでお酒を飲むブログです

身近な要塞、猿島を訪ねる

適当に関東を南下する

ひょんなことで「なんとなく街歩きというか巡検でもしませんか」というような声をかけて頂き、おっさん総勢5名で新宿に集合したある冬の日。特に当て所なく、「鎌倉か三浦か横須賀行きましょう」と横浜横須賀道路を南下しながら主催者氏の軽妙な『魔法つかいプリキュア!』推しトークと横浜南部の団地開発トークを聞き、横須賀PAでご飯を食べてながら考えていたところ、僕以外のみなさんが横須賀と猿島行ったことがないのが判明したため、じゃあ、ということで衣笠ICから衣笠ICから大回りで猿島を目指すことになりました。

猿島へ渡るぞ

横須賀ポートマケットというお土産物屋複合施設に車を停め、桟橋へ歩いていきます。
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(灰色の船を指差しながら)「あっ!ゆりしーずさん!あれですね!あれで猿島渡るんですね!!」
「ちがいます、あれはせんかんみかさです。渡し船は手前の方」
というお約束のやり取りを経た後、渡し船の時刻表を確認すると、少し時間の余裕があったので三笠も見学することにしました。

「主砲が米海軍基地の方を向いたまま展示されてるの批評性がある」
「批評性?」

三笠見学記は気が向いたら別項とする予定です。
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三笠公園の一角というか横にある桟橋から猿島まではほんの10分ほど。
島の一部が白いのなんだろうと思っていたのですが
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ウの営巣地に堆積したウの糞でした。あれが何万年か経てばリン鉱石に……。ヨッシャ我が国もいずれ資源大国や!!
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猿島側の桟橋。夏になるとこの砂浜が海水浴場となります。
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ビジターセンター兼管理事務所兼売店みたいなやつの前を通って要塞の中に入っていきます。

何の説明もなく置かれている機械の残骸なのですが、きっとなんか由緒があるんだと思う。たぶん。
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こちら、上記ビジターセンター裏の元要塞用の発電所。煙突のレンガ積みに時代を感じます。中の機械とともに改修されつつ今でも使用されているみたい。

東京(湾)の防衛と、猿島

さて、そもそもなんでこの猿島というところにかつての砲台の遺構が残っているのでしょうか。
「軍港である横須賀港の近くだからでは?」というのはその通りなのですが、猿島が果たした役割を含めて簡単に紹介したいと思います。いま簡単って言いましたけど、話したいことが出てきたオタク特有の長広舌になりますのでアレでしたら飛ばしてください。でも読んでくれたらうれしいな!

江戸時代後期から外国船に備えるため、東京湾の最も狭い部分である観音崎―富津には陣屋や台場が置かれていました。しかしこれはあまり有力ではなく、ペリー艦隊の東京湾侵入を防げませんでした。この結果、より近代的な海防施設で江戸を防御することが計画され、品川沖に今にもその姿を残す「お台場」が築かれたのは皆さんご存知の通りです。T.Y.ハーバー辺りが海で第四台場と御殿山下台場に挟まれていたなんていうのは今の付近の情景からするとちょっと信じられないですよね。

さて、明治期に入ると火砲技術の進化(主に射程)と防衛範囲の広がり(東京市街地だけでなく国際港横浜、軍港横須賀の防衛)により、再び「品川沖に要塞置いておいても仕方ない、東京湾を防衛するような要塞群を設置するようにしよう」ということになりました。こうして横須賀港周辺と、観音崎―富津のラインに人工島を含めた要塞群の設置が始まります。猿島はこの要塞群の一つとして明治17年(1884年)6月30日に竣工しました。レンガによって構築された遺構はほぼこの時のものです*1
しかしやがて、東京湾を大地震が襲います。関東大震災です。関東大震災による被害と、さらなる火砲技術の進化(主に射程)が、観音崎―富津ラインの要塞群の価値を半減させてしまいました。このため、東京湾を防備する要塞群は再編成され、その主力は東京湾外縁、即ち観音崎―洲崎のラインに設置されるようになりました。この流れの中で猿島は大正14年7月に陸軍の要塞としては除籍され、海軍の管理下に入ります。
海軍の管理下にあった猿島は空中聴音機*2、ついで高角砲(40口径三年式8センチ高角砲4門)が設置*3され、また、陸軍所有のまま猿島に置かれていた要塞砲の移管を受ける*4など、横須賀防備のための砲台として徐々に戦備を整えていきます。んで、戦時中の動きとかよくわかんなくてアジ歴の資料見てると戦争末期に前述の高角砲が89式12.7㎝連装高角砲に換装されるとともに、どうも猿島について調べている方々のサイトなど読むと、40㎜機銃や25㎜機銃も配備されていたという証言があるそうです。

苔むす切り通し


先ほどの発電機室を反時計回りに回り込んで出るのがこの道。もう既に滅茶苦茶に雰囲気がありますね。
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この木道は見学用に新たに作られたもの。ちょっと尾瀬とかの桟道を思い起こさせます。向かって左手が横須賀、右手が千葉側で、この切り通しの左右に弾薬庫や兵員室が並んでいます。
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徐々に植生に覆われていくレンガの地下室、この得も言われぬブルース感とSF感。
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こちらは便所跡。遺構にふっと現れる生活痕は施設のリアリティを高めます。いや、これはもちろんリアルそのものなんですけど、人に見せるものではない施設が残って展示されていること、なにか歴史の強度のようなものを感じずにはおれません。

欧州の城塞を思わせる美しいトンネル

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木道をどん詰まりまで歩くと美しいトンネルが現れます。俗称「愛のトンネル」というらしいのですが、どのへんが愛かは説明もなく不明です。愛、愛ってなんだ……
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このトンネルはレンガの長辺(長手)と短辺(小口)を交互に並べたフランス積み*5現存している施設としてはかなり珍しいものだそうです。
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真ん中辺りから入り口を振り返る。
中にも兵員室か弾薬庫だろうと推定される部屋が並んでいます。

遅ればせながら年明けからFGOを初めたオタクなので当然こういう光景に心奪われ、シャトー・ディフ*6じゃん!!!と興奮しました。
おそらくトンネル内から砲台に取り付くための階段なんでしょう。
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トンネルは真ん中からゆっくりと下り坂になります。水平に掘ったほうが楽というか、シンプルだと思うんですが、頭上の土被りの厚みの問題なのかしら。
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トンネルを通り抜けると小さいトンネル2つ*7と砲台へ続く階段に囲まれたオープンスペースにでます。

上記に写ってないトンネル。こちらはレンガ積みではなく漆喰*8と石垣で作られているのが興味深い。根拠レスですが、要塞各所への交差点みたいなものかな。
なお、欧州の城塞一回も行ったことないです。

日蓮上人伝説も伝わる島

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小さなトンネルを抜けると目に入ってくるのがこの円形のコンクリートの何か。戦前に設置された40口径三年式8センチ高角砲の台座跡です。

骨材の混ざり具合はこれくらい。
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北側にある別の高角砲台跡。
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後ろ側にはどう見ても人工的に掘削された切り通しがあったんですが、色々堆積していて道なのか何のかよくわからない……。
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砲台の奥の階段から北東側を眺める。一番東京湾が広く見える角度だと思います。この階段、結構急で狭くて長いんですよ。

階段途中にある洞窟。「日蓮上人が安房から鎌倉へ向かうべく東京湾を横断した際に遭難、その際に避難していた」という伝承が伝わっているとのこと。そもそもサルがまったくいないこの猿島の「猿」自体、この遭難の時に日蓮を導いた白猿の伝承に由来しています。ここからは弥生時代の道具やら人骨がでているそうで、昔から避泊等に使われているうちに信仰に結びついていったのかもしれませんね。
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降りきった先は磯場になっていて、折りたたみ椅子広げながら釣りしている人とかいました。
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桟橋に戻りながらトンネルを抜けた最初の砲台を通り越すと3基目の砲台跡が目に入ります。
今回はスルーしてしまったんですがここからより海の近くに降りていく道があって、その先に江戸時代の台場の跡に整備された広場があります。
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別の時に行った写真ですがこんな感じ。先程の砲台脇からの写真と反対に、こちらはおおむね東京湾の一番狭い部分の風景です。

ゲルショッカー結団式の展望台ももはや史跡感でてきた

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左の階段の道を上がっていくとそこには「仮面ライダー」シリーズで日本征服を狙っていた秘密組織「ゲルショッカー」が結団式をおこなった展望台が建っているはずなのですが……。
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完全に廃墟の趣であり、歴史はやはり敗者に厳しいものだということがうかがえます。ゲルショッカーが世界を征服していたら、ここも本物の聖地として修復・保存事業が行われていたに違いない。
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展望台がある広場からは横須賀港と横須賀市の町並みがよく見えます。猿島で一番動きがある展望が見えるところかもしれません。
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展望台から少し歩くと先程見たものよりより本格的な砲台跡が目に入ります。おそらく明治時代の砲台を転用した八九式12.7㎝連装高角砲の砲台跡でしょう。推測ですが、周りの地下室は弾薬庫や指揮装置になっていたんじゃなかろうか。
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こちらのコンクリートを見ると三年式8センチ高角砲ものより骨材が多く、貝殻が混入しているようにも見受けられ、物資不足の戦時中の施工なのではないかと思われます。
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さらに奥にはもう一つ同じような砲台跡が。こちらは手前にロープが張ってあり近寄れませんでした。いつか整備されて中入れるようになるんだろうか。
最終の戻り便で横須賀本土へ。


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ということで帰桟。お疲れ様でした。
僕はと言えば

*1:東京湾要塞跡(猿島砲台跡)|横須賀市

*2:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022238500、公文備考 昭和7年 I 兵器 巻3(防衛省防衛研究所)」

*3:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05035354000、公文備考 昭和11年 Q 水路関係 巻5(防衛省防衛研究所)」

*4:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007244100、昭和14年 「乙輯 第2類 第3冊 兵器(其2)」(防衛省防衛研究所)」

*5:本当は「フランドル積み」というのが正しい名称なのですが日本には当初「フランス積み」という名前が伝わっていたとのこと

*6:復刻イベントで知りました

*7:見切れてますが右手にもう一つトンネルがあります

*8:たぶん