初夏の那須に行って高原と動物園を楽しんできた/高原編
那須動物王国に行く前にフラフラしたところをざっくりと。
何はなくとも湯本温泉の上の殺生石園地まで。一部桟道が工事中でした。
蛇を助けて温泉蒸気からの湯の花の取り方を教えてもらったというお話。
みなさまご存知、玉藻の前こと九尾の狐が安倍晴明との対決に破れここまで落ち延び、ここでもまた朝廷軍に討伐されて石に姿を変えたが、その呪力は衰亡せず近くを通る生き物を生害したと伝わるのがこの「殺生石」一番上の四角いのじゃなくて左手の注連縄がめぐらされているやつですね。有毒火山ガスの噴出があったり、それが弱まっていったりしたのが説話に結び付けられたのでしょうけれども、なかなか良くできた話と思います。
殺生石の手前にはたくさんのお地蔵様が。火山ガスが出る荒涼としたところを賽の河原に見立てるのは日本古来のアレですね。
眼下には那須野が原が。
温泉神社の参道へ。
殺生石園地が一望できました。
温泉神社の境内は初夏の緑に覆われてめっちゃ雰囲気があったし、涼しかった。
車で少し旧ボルケーノハイウェイを進んだところ。こうしてみるとたしかに臼状に見える茶臼岳。ロープウェイの支柱と山頂駅が見えます。
つつじ群生地で展望台探したけど見つからずひたすらアップダウンした山道。
やたらいた尺取り虫。
そして展望台のこの眺望!誇張なしに白河市から筑波山まで見えました。
オリジナルサイズの連坊写真はこちらです
https://cdn-ak2.f.st-hatena.com/images/fotolife/h/hms_ulysses/20170603/20170603112934_original.jpg
涼しい那須……また行きたい……。
メカメカしい機械たちと熱心な係員さんたち、とても楽しかったJAMSTEC横須賀本部一般公開(その1 海底広域研究船「かいめい」とそのメカ)
あいにくの雨だけど
毎年の5月半ば、海洋開発研究機構(以下JAMSTEC)の横須賀本部が一般公開され、JAMSTECの保有する船艇や機器・研究施設の一部を間近に見ることができます。以前一度行ったことがありましてすごく面白かったのでまたいつか行こうとしていたところ、ちょうど日程が被るように「野毛で飲みましょう」という誘いがあって、日が高いうちは一般公開に行ってあれこれ見て、戻りながら野毛飲みだな、「帰りがけ」*1で0次会するのもありだななどと意気込んでいたのですが……
雨、それも結構強い雨。
お目当てのひとつだったサメの解剖が中止になっていたことにしょんぼりしつつ、追浜駅から無料のシャトルバスで横須賀本部に向かいました。
本日のお目当て海底広域研究船「かいめい」。昨年3月に就役した新鋭船です。
この桟橋は横須賀港の北端と行った位置で、すぐ横が日産自動車の専用埠頭、見えにくいのですが、吾妻島の向こうに横須賀に入港せんとする「あきづき」型護衛艦の姿が見えたりします。
長期間の研究航海を支える居住区画
タラップを上がって順路の一番最初にあるのがこの食堂。写真後ろ側がキッチンでカウンターの守られた料理を自分で取っていくビュッフェとなっています
飲料コーナーにはネスカフェのドルチェ・グストっぽいものもあり、飽きないような工夫だよなーと思いました。俺はもう会社の近くの自販機とコンビニ飲料には飽きてきたよ……。
自販機の横の階段を上がって、こちらは首席研究者の部屋。長期の研究航海のために基本一人一部屋の割り当てになっている「かいめい」の中でも特に広く、寝室と執務室が別れたスイートになっています。ユニットバスも備え付けられているそうで、一般船舶あるいは自衛艦での船長/艦長/司令に相当する待遇です。*2
こちらが一般の研究者寝室。洗面台に冷蔵庫付きとこちらも設備充実。収納スペースこそ限られていますが、乗り組んだ研究者も陸の自分の「研究室」に近い感じで使えるんじゃないでしょうか。
こちらは別の研究者寝室。違うところが一点あるんだけどわかりますかね?
そう、ベッドの上の毛布のたたみ方が違いまして、上は「八重桜」、下は「二枚貝」があしらわれた飾り毛布となっています。司厨部*3に皆さんの心配りでしょう。一般公開向けなのか、実際の研究航海のときも初日は準備しておくのかは不明。他の部屋だと「松竹梅」「二輪草」「富士山」などが飾ってありました。
最新機器を動かす機能が集約されたブリッジ
居住区から階段を上がっていくとブリッジに出ます。品のいい調度の給湯スペースがあるの、一つは長丁場の作業時にブリッジに詰めっぱなしになる船員さんたちのためなのかなと思います。あと壁の裏手側に第1研究室という音響関係の調査を行う際のオペレーションルーム兼研究室があるのでそちらへの給湯も意図されていそうです。
ブリッジを両側から。大変広々としており、両端では後ろ側にも窓が設けられていて、広い視界が確保されています。それっぽく言うと艦橋ウイングまでエンクローズドされている。
操舵輪正面からの視界。ブリッジのコンソールはもちろんピカピカの電子化が進んだ現代的なもので、多目的っぽいディスプレイにはレーダー画像(左)、電子海図(右)、および推進装置の説明動画(真ん中)が映されていました。
さて、この「推進装置」が「かいめい」の船としての大きな特徴の一つで、「アジマス電気推進」という仕組みを採用しているのです。
現代の多くの船舶は船体の下のほうに機関室を配置してそこでエンジンを回し、その回転をスクリューに伝えることで前後に進みます。車のエンジンとタイヤのイメージでだいたいあっている感じ。これに対して「かいめい」は船体内の発電機で発電した電力を船体後尾に装備した推進ポッドに伝え、ポッド内のモーターを回してスクリューを回して進みます。車で言うとタイヤを直接モーターで回しているイメージになりますね。では、このポッドを使った「アジマス電気推進」のなにが従来の方式に比べて優れているかというと、船体内に力を伝えるでかい回転軸を通さないで済むためレイアウトの自由度が増すこと、また推進ポッドは360度回転できるため、従来のスクリュー+舵の推進装置に比べて細かい操船操作ができます。*4
上の写真で左側に写っている、プラスチックカバーの掛かった、なんて表現すればいいんだろう?取っ手の付いた筒がアジマス推進機の個別の操作機で、取っ手の部分を倒した角度で速度を、筒の部分の回転角度で方位を調整します。GPSにアジマス推進器プラス船体に装備された位置調整用の小型推進機*5を組み合わせることで、潮や風の流れがあるところでも一定地点にとどまったまま、調査を続けられるようになっているとのこと。
雨をついて採取・研究区画に降りていきます。
採取・研究区画
観測用のウインチシステム(の一部)。機材によってさまざまなロープやケーブルが使われる。深海に機材下ろすの色々と苦労があるとのこと。
こちらは海水調査センサーを下ろすための装置。海洋調査船だけあって、とにかく海中にものを下ろす機械がいっぱいです。これらの操作は上記のブリッジではなく甲板や船体に設けられた制御装置にて行われます。
甲板をひとつ降りるとそこには水深3000m級の無人探査機とその投入装置が。「かいめい」の基本装備のひとつです。上のメッシュになっている円筒の部分が「投入装置」、下のオレンジの部分が「無人探査機」。黄色と青の円形のやつがスクリューかな。
大きな開口部から船体内に戻ります。下に鉄のレールが引かれていることから分かるように海中から引き上げた試料を台車で研究室に運び入れられるようになっています。右側、人が立ち止まっているところが研究室の入り口です。
第3研究室内。
第3研究室と格納庫の間には整備室がありました。「せっかく海に出たはいいが機材が壊れて採集も研究もできない」という事態を防ぐためでしょうか、民間船にしてはなかなか充実した雰囲気。
こちらは格納庫。護衛艦のヘリ格納庫を見慣れた目にはちょっと狭い。ここにも機材移動用のレールが敷かれているのが分かるかと思います。ちなみにここに格納されるのは
このどこかFGOのパッションリップさんみを感じる試料採集装置の「パワーグラブ」など*6。左の爪型のが岩石など硬いものの採取用、右のグラブ型のが柔らかい海底面をそのまま掬い取る*7用。グラブ型のはどれくらいの塩梅で使用するとちょうどいい量の資料が取れるのかなど、まだ試行錯誤中とのことでした。
後甲板。奥の青いのが重量物を海中に投入するためのAフレームフクレーン。右の白いのは15トンクレーンで…まあここも海中にものを下ろす機械がいっぱいです。あと、ちょっと勘の良い方には目についていると思うのですが、「かいめい」作業甲板が木の板じきになっています。木は使っているうちに傷んでくるし経費もかかるので、どうしてこうしたのかなーと思って乗組員の方に聞いたところ色々利点があるようでして
- 鉄の甲板+塗料だと甲板作業の際暑すぎる
- いろいろな機材を船上で取り回すので甲板に傷がつきがち。鉄の甲板だと錆止めも兼ねてキズにペンキを塗っていかないけないが木だとそこまで気にしないでいい
- 濡れても滑りにくい
などが木の甲板の採用理由だとか。
ここいらで下船。
他にも「かいめい」は無線LAN完備なんですがその管理を行っているのは他船での「通信長」に当たる「電子長」さんで、その電子長さんに色々お話うかがっている時に「船のシステム化がどんどん進んでいくと『通信』部署の乗組員はいわゆる船員の枠組みから外れていくかもしれないですね」なんて仰っていたのが印象に残りました。乗組員のみなさん、おっさんの素朴な疑問にも嫌な顔ひとつせずとことん答えてくれるのですごい楽しかった。
小さな聖なる丘の小さな動物園、夢見ヶ崎動物公園
そもそも「夢見ヶ崎」とは
夢見ヶ崎動物公園、身の回りの人に聞いてもあまり知名度がなくて、「そもそも夢見ヶ崎ってどこなの?」と言われがちなのですが、川崎市の南東方面の2/5あたり、具体的に言うとJR南武線鹿島田駅、横須賀線*1新川崎駅から西に少し歩いたところにあります。
新川崎駅出てすぐの新鶴見機関区をまたぐ跨線橋。昔は右の屋根付きの留置線に除雪用のラッセル車を連結したDE15形ディーゼル機関車が停められていて、そこかしこにEF64形電気機関車がいたんですが、この10年でガラッと陣容が変わりましたね……。
さて「夢見ヶ崎」という地名、なんだかニュータウン系の美称っぽい感じがしますが、実は室町時代後期の武将、太田道灌がこの地に城を築こうとした際に凶夢を見たためこれを諦めた、という伝承による地名なんだそうです。
そもそもこの夢見ヶ崎(またの名を加瀬山)、4世紀後半から7世紀後半にかけて築造された11基の古墳が残されており*2、古代の鶴見川と多摩川の流路は現在と異なっていたと思われますが、下住吉台地の終端から始まる両水系による沖積地はそれなりの農業生産力を持ち、そこを睥睨できる加瀬山が信仰ないしは権力の象徴として地域住民の注目を浴びていたであろうことは想像に難くありません。
現在でも日蓮宗のお寺(了源寺)と熊野神社、浅間神社、天照皇大神社の3つの神社が座していて、特に天照皇大神社では配祀神に白山比咩命、第六天神、石神あり、境内社に浅間神社や三峰神社があり、と東国の信仰全部盛りみたいなところありました。
ラマ舎の前の熊野神社。境内に古墳あり(加瀬台4号墳)。
シカ舎の前の冨士浅間神社。お社までの盛り上がりがすでに古墳(加瀬台5号墳)。
天照皇大神社。これもお社までの盛り上がりが古墳(加瀬台7号墳)。
こちらは公園の東端に位置する戦没者慰霊塔。
ともあれ動物園内部へ
それはともかく。
入口。実は新川崎から徒歩で訪れる場合は、こっちより了源寺のわきの階段を昇ってくるルートの方が若干近道だったりします。
入ってすぐにあるワタボウシパンシェの飼育舎。裏に入っちゃっててあんまりよく見えず……
シセンレッサーパンダはお昼寝中。レッサーパンダは寝てても動いててもどこの動物園でも人気です。
広々としたマーコールの放飼場。右の方には岩場がありますがほとんどのマーコールが左の方に集まって食事タイム中。
オスの角がコルク抜き上にくるくるっとなっているのが特徴です。
めっちゃ小さい仔だなと思ったんですが、検索してみるとどうも数日前に生まれたばかりの赤ちゃんみたい。まだ地球にあんまり慣れてないみたいで、ぴょこんぴょこん飛び跳ねるように歩いていました。
水回り担当、水禽エリア
のんびり目に泳ぐフンボルトペンギン。
チリ―フラミンゴ。右の池にはイシガメがいます。不思議な混合展示ではある。*3
餌がいいのか陽を浴びた羽の色が素敵です。
親亀の上に子亀が乗ってる!実際の血縁関係は不明ですが……。こちらはクサガメとアカミミガメという外来種2種が飼われている水槽。
ニシトビ。
水槽を掃除されているカミツキガメもいました。
よく考えると「水禽」全然いなかったなこのエリア。
もう一つの見もの、蹄のある生き物たち
ハートマンヤマシマウマがかなり近くで見えます。現在の日本人が近寄れるウマって、ポニーだったり、競走馬系だったりするわけですが、シマウマは彼らよりなんかこう厚みがあって存在感があるんですよね。横にいたカップルが
「えっ、シマウマ、なんかでデカくない……?」
「うん…なんか背は高くないけどデカい……」
という会話を交わしていたのが聞こえてきた時、心の中で「わかるわー」と絶賛同意していました。
放飼場の周りにはこんな注意書きも。
光さす放飼場で寝ているラマ。
起き上がって草を食べまくるラマ。
このエリアはもともとは川崎市が中国の瀋陽市を友好都市提携を結んだときに贈られたヘラジカとその子孫の放飼場だったのですが、2013年に最後の1頭が死んでしまってから代わりにラマの放飼場となった模様。
ヘラジカ、つぶらな瞳のわりに身体がとても大きくて、「シカ」というもののイメージを裏切ってくる素敵な生き物なためぜひまた動物園で姿を見たいのですが、生息域が口蹄疫や慢性消耗疾患の発生地であるため、家畜伝染病予防法上、生体の輸入は難しそうです。
2008年に夢見ヶ崎動物公園行った時に撮影していたヘラジカ。
そうそう、シカといえばお前たちくらいのサイズ感だよな……。
眠そうなヤギのタンゴさん。名札とかついてるけど特に常設のふれあいコーナーがあるとかではない。
小動物舎と小獣舎とあと鳥がめっちゃメンチ切ってくる
訪問したのが晩春から初夏の変わり目、ちょっと暑い日の午後だったため、省エネモードの動物が多く……
昼寝をしているアナグマ。
アライグマ(左上の毛玉)も寝てた。巣箱の入口が原産地にちなんで北アメリカ形になってるのクール。
暑くて水を飲むハクビシンとそれを邪魔するハクビシン。
平べったくなってωを冷やしてるっぽいアカリス
伸び切ったケープハイラックス。
望遠レンズで写真撮ってたらなんかインコとかオウムのみなさんにガンを飛ばされた……。
日本の国鳥、キジは日光の調子とも相まって非常美しい一枚が撮れました。
狭いながらも楽しい我が家、サル舎・レムール舎
昨今の動物園の様子から見ると少し手狭に見えるサル舎のゲージたち。3種の新世界ザルが飼育・展示されています。
ぴっちりとケージに張り付いて愛想を振りまく若干ムッチリとしたフサオマキザルさん。
宝くじ協会からの援助で建てられた少し現代的な「レムール舎」も植生はすっかり日本の藪という感じでしたが……
なんかヘブン状態なブラウンキツネザルもいるからこれはこれでいいのかな。
まとめ
開園して約45年、少しづつ改修されているなりにしかし結構古びているのは事実で、人口が下回ってる千葉市動物公園はおろか、下手すると市川市動植物園にも派手さで負けてるぞ!どうする川崎市!!みたいな感じがするところもあります。しかし、海外の生き物を色々取り揃えて行くとめちゃめちゃコストがかかる上、横浜市が3つも持っている動物園とが真っ向勝負になるし、といって「川崎の生き物」を取り扱っていこうにも「川崎の生き物…とは……?」となりかねないところがあるのも理解できます*4。動物が見れる大きめの公園として地域住民の方々に愛されてるっぽいので*5、うまい感じに愛され続けていってほしいなあと思った次第です。
身近な要塞、猿島を訪ねる
適当に関東を南下する
ひょんなことで「なんとなく街歩きというか巡検でもしませんか」というような声をかけて頂き、おっさん総勢5名で新宿に集合したある冬の日。特に当て所なく、「鎌倉か三浦か横須賀行きましょう」と横浜横須賀道路を南下しながら主催者氏の軽妙な『魔法つかいプリキュア!』推しトークと横浜南部の団地開発トークを聞き、横須賀PAでご飯を食べてながら考えていたところ、僕以外のみなさんが横須賀と猿島行ったことがないのが判明したため、じゃあ、ということで衣笠ICから衣笠ICから大回りで猿島を目指すことになりました。
猿島へ渡るぞ
横須賀ポートマケットというお土産物屋複合施設に車を停め、桟橋へ歩いていきます。
(灰色の船を指差しながら)「あっ!ゆりしーずさん!あれですね!あれで猿島渡るんですね!!」
「ちがいます、あれはせんかんみかさです。渡し船は手前の方」
というお約束のやり取りを経た後、渡し船の時刻表を確認すると、少し時間の余裕があったので三笠も見学することにしました。
「主砲が米海軍基地の方を向いたまま展示されてるの批評性がある」
「批評性?」
三笠見学記は気が向いたら別項とする予定です。
三笠公園の一角というか横にある桟橋から猿島まではほんの10分ほど。
島の一部が白いのなんだろうと思っていたのですが
ウの営巣地に堆積したウの糞でした。あれが何万年か経てばリン鉱石に……。ヨッシャ我が国もいずれ資源大国や!!
猿島側の桟橋。夏になるとこの砂浜が海水浴場となります。
ビジターセンター兼管理事務所兼売店みたいなやつの前を通って要塞の中に入っていきます。
何の説明もなく置かれている機械の残骸なのですが、きっとなんか由緒があるんだと思う。たぶん。
こちら、上記ビジターセンター裏の元要塞用の発電所。煙突のレンガ積みに時代を感じます。中の機械とともに改修されつつ今でも使用されているみたい。
東京(湾)の防衛と、猿島
さて、そもそもなんでこの猿島というところにかつての砲台の遺構が残っているのでしょうか。
「軍港である横須賀港の近くだからでは?」というのはその通りなのですが、猿島が果たした役割を含めて簡単に紹介したいと思います。いま簡単って言いましたけど、話したいことが出てきたオタク特有の長広舌になりますのでアレでしたら飛ばしてください。でも読んでくれたらうれしいな!
江戸時代後期から外国船に備えるため、東京湾の最も狭い部分である観音崎―富津には陣屋や台場が置かれていました。しかしこれはあまり有力ではなく、ペリー艦隊の東京湾侵入を防げませんでした。この結果、より近代的な海防施設で江戸を防御することが計画され、品川沖に今にもその姿を残す「お台場」が築かれたのは皆さんご存知の通りです。T.Y.ハーバー辺りが海で第四台場と御殿山下台場に挟まれていたなんていうのは今の付近の情景からするとちょっと信じられないですよね。
さて、明治期に入ると火砲技術の進化(主に射程)と防衛範囲の広がり(東京市街地だけでなく国際港横浜、軍港横須賀の防衛)により、再び「品川沖に要塞置いておいても仕方ない、東京湾を防衛するような要塞群を設置するようにしよう」ということになりました。こうして横須賀港周辺と、観音崎―富津のラインに人工島を含めた要塞群の設置が始まります。猿島はこの要塞群の一つとして明治17年(1884年)6月30日に竣工しました。レンガによって構築された遺構はほぼこの時のものです*1。
しかしやがて、東京湾を大地震が襲います。関東大震災です。関東大震災による被害と、さらなる火砲技術の進化(主に射程)が、観音崎―富津ラインの要塞群の価値を半減させてしまいました。このため、東京湾を防備する要塞群は再編成され、その主力は東京湾外縁、即ち観音崎―洲崎のラインに設置されるようになりました。この流れの中で猿島は大正14年7月に陸軍の要塞としては除籍され、海軍の管理下に入ります。
海軍の管理下にあった猿島は空中聴音機*2、ついで高角砲(40口径三年式8センチ高角砲4門)が設置*3され、また、陸軍所有のまま猿島に置かれていた要塞砲の移管を受ける*4など、横須賀防備のための砲台として徐々に戦備を整えていきます。んで、戦時中の動きとかよくわかんなくてアジ歴の資料見てると戦争末期に前述の高角砲が89式12.7㎝連装高角砲に換装されるとともに、どうも猿島について調べている方々のサイトなど読むと、40㎜機銃や25㎜機銃も配備されていたという証言があるそうです。
苔むす切り通し
先ほどの発電機室を反時計回りに回り込んで出るのがこの道。もう既に滅茶苦茶に雰囲気がありますね。
この木道は見学用に新たに作られたもの。ちょっと尾瀬とかの桟道を思い起こさせます。向かって左手が横須賀、右手が千葉側で、この切り通しの左右に弾薬庫や兵員室が並んでいます。
徐々に植生に覆われていくレンガの地下室、この得も言われぬブルース感とSF感。
こちらは便所跡。遺構にふっと現れる生活痕は施設のリアリティを高めます。いや、これはもちろんリアルそのものなんですけど、人に見せるものではない施設が残って展示されていること、なにか歴史の強度のようなものを感じずにはおれません。
欧州の城塞を思わせる美しいトンネル
木道をどん詰まりまで歩くと美しいトンネルが現れます。俗称「愛のトンネル」というらしいのですが、どのへんが愛かは説明もなく不明です。愛、愛ってなんだ……
このトンネルはレンガの長辺(長手)と短辺(小口)を交互に並べたフランス積み*5現存している施設としてはかなり珍しいものだそうです。
真ん中辺りから入り口を振り返る。
中にも兵員室か弾薬庫だろうと推定される部屋が並んでいます。
遅ればせながら年明けからFGOを初めたオタクなので当然こういう光景に心奪われ、シャトー・ディフ*6じゃん!!!と興奮しました。
おそらくトンネル内から砲台に取り付くための階段なんでしょう。
トンネルは真ん中からゆっくりと下り坂になります。水平に掘ったほうが楽というか、シンプルだと思うんですが、頭上の土被りの厚みの問題なのかしら。
トンネルを通り抜けると小さいトンネル2つ*7と砲台へ続く階段に囲まれたオープンスペースにでます。
上記に写ってないトンネル。こちらはレンガ積みではなく漆喰*8と石垣で作られているのが興味深い。根拠レスですが、要塞各所への交差点みたいなものかな。
なお、欧州の城塞一回も行ったことないです。
日蓮上人伝説も伝わる島
小さなトンネルを抜けると目に入ってくるのがこの円形のコンクリートの何か。戦前に設置された40口径三年式8センチ高角砲の台座跡です。
骨材の混ざり具合はこれくらい。
北側にある別の高角砲台跡。
後ろ側にはどう見ても人工的に掘削された切り通しがあったんですが、色々堆積していて道なのか何のかよくわからない……。
砲台の奥の階段から北東側を眺める。一番東京湾が広く見える角度だと思います。この階段、結構急で狭くて長いんですよ。
階段途中にある洞窟。「日蓮上人が安房から鎌倉へ向かうべく東京湾を横断した際に遭難、その際に避難していた」という伝承が伝わっているとのこと。そもそもサルがまったくいないこの猿島の「猿」自体、この遭難の時に日蓮を導いた白猿の伝承に由来しています。ここからは弥生時代の道具やら人骨がでているそうで、昔から避泊等に使われているうちに信仰に結びついていったのかもしれませんね。
降りきった先は磯場になっていて、折りたたみ椅子広げながら釣りしている人とかいました。
桟橋に戻りながらトンネルを抜けた最初の砲台を通り越すと3基目の砲台跡が目に入ります。
今回はスルーしてしまったんですがここからより海の近くに降りていく道があって、その先に江戸時代の台場の跡に整備された広場があります。
別の時に行った写真ですがこんな感じ。先程の砲台脇からの写真と反対に、こちらはおおむね東京湾の一番狭い部分の風景です。
ゲルショッカー結団式の展望台ももはや史跡感でてきた
左の階段の道を上がっていくとそこには「仮面ライダー」シリーズで日本征服を狙っていた秘密組織「ゲルショッカー」が結団式をおこなった展望台が建っているはずなのですが……。
完全に廃墟の趣であり、歴史はやはり敗者に厳しいものだということがうかがえます。ゲルショッカーが世界を征服していたら、ここも本物の聖地として修復・保存事業が行われていたに違いない。
展望台がある広場からは横須賀港と横須賀市の町並みがよく見えます。猿島で一番動きがある展望が見えるところかもしれません。
展望台から少し歩くと先程見たものよりより本格的な砲台跡が目に入ります。おそらく明治時代の砲台を転用した八九式12.7㎝連装高角砲の砲台跡でしょう。推測ですが、周りの地下室は弾薬庫や指揮装置になっていたんじゃなかろうか。
こちらのコンクリートを見ると三年式8センチ高角砲ものより骨材が多く、貝殻が混入しているようにも見受けられ、物資不足の戦時中の施工なのではないかと思われます。
さらに奥にはもう一つ同じような砲台跡が。こちらは手前にロープが張ってあり近寄れませんでした。いつか整備されて中入れるようになるんだろうか。
最終の戻り便で横須賀本土へ。
そういえば今日は横須賀の海の上で彩雲を見たのでした。吉兆だといいなーという気もちと、「『宝石の国』で月人が攻めてくるときっぽい」という気持ちが混じり合った。 pic.twitter.com/tcdBILjyue
— えいち・えむ・えす・ゆりしーず (@hms_ulysses) 2017年1月29日
ということで帰桟。お疲れ様でした。
僕はと言えば
違うオフ会に向けて移動している
— えいち・えむ・えす・ゆりしーず (@hms_ulysses) 2017年1月29日
*2:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05022238500、公文備考 昭和7年 I 兵器 巻3(防衛省防衛研究所)」
*3:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05035354000、公文備考 昭和11年 Q 水路関係 巻5(防衛省防衛研究所)」
*4:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01007244100、昭和14年 「乙輯 第2類 第3冊 兵器(其2)」(防衛省防衛研究所)」
*5:本当は「フランドル積み」というのが正しい名称なのですが日本には当初「フランス積み」という名前が伝わっていたとのこと
*6:復刻イベントで知りました
*7:見切れてますが右手にもう一つトンネルがあります
*8:たぶん
霧で深山幽谷の雰囲気を醸し出す榛名神社とその隠しステージがすごかった話
hms-ulysses.hatenablog.com
こちらのイベント、14時前にはだいたい見尽くした感じとなり*1、さてもうひと遊び何かしたいと思ったところなのですが生憎の雨。特に何をするというのが思いつかないままに、ままよ、ドライブしつつ温泉地を目指そうと、ぐねぐねの山道を南側から辿って榛名湖方面を目指します。途中の峠道2車線ないところが結構あって、運転してて楽しかったんですが、それはそれとして今回のメンバーに皆さんが車に強くて本当に良かった。運転手なので道中の写真ナシ!
霧に抱かれて静かに眠る?起きてる?榛名湖
県道28号を抜けるとそこは榛名湖。
霧に包まれた湖畔に立つ謎の建物*2。どう見ても中で難しい殺人事件が起こっているパターンですよこの霧のまとい方。興奮してみんなで写真を撮りまくる。
湖畔脇にあった完全に人がいなくて空調も全く入っておらず、屋外より寒くて、文明崩壊後かよという風情があるビジターセンター。
あとなんかビジターセンターの駐車場に暇そうなウマと暇そうな人間がいました。この天気だと馬に乗って散歩、という人も少なかろう。
少ないと言えば、榛名富士の山頂にも雲がかかっていて、榛名山ロープウェイ自慢の2両連結ゴンドラにもほとんど人の姿は見られませんでした。僕は高いところが大好きなので、ロープウェーに乗りたかったのですが、流石にこの雲行きでは意味ないなーと途方にくれていると、仕事柄群馬に詳しい同行者の一人が
「せっかくここまで来たんだから、すぐそこですごいいい所だよ」
と榛名神社を激プッシュしてくれまして、結果から言うとこれは大正解でした。
深山幽谷に佇む榛名神社
榛名歴史民俗資料館前の駐車場に車を止めて坂道を上りながら榛名神社を目指します(写っているの知らない人たちです)。これだけの傾斜のある門前町、珍しい気がする。なお、「榛名神社駐車場」というのぼりが各所に立っていて、車運転しているときにはよくわからなかったのですが、どうも市が直接設置した公営駐車場の他、宿坊や商店の駐車場も参拝客駐車場として利用可能のようです。
二の鳥居。
随神門(国指定重要文化財)。
杉並木の参道。
苔むした参道の手すりも例えば夏の日差しのもとで見たらイメージが結構違うんだろうな。
桟道の中には塞の神を祀った社がありました。侵食の激しい崖沿いに塞の神が祀られているのは興味深い。
日々山体が削られていく火山の荒々しい様子が見て取れます。
瓶子の滝。こちらの侵食の様子も面白い。滝壺には氷がまだ残っています。
仏堂形式で建てられた神幸殿(国指定重要文化財)。神仏習合の名残を見ると、がぜん古い伝統に触れた感じがしますね。
階段下の杉は武田信玄が箕輪城攻めに当たって矢を立てて祈願したという矢立杉。
山門をくぐりいよいよ本堂へ
神門(左)と双龍門(国指定重要文化財)。
階段が続いた上にこの霧。気温は決して高くないのにこのへんで段々蒸し暑くなってきていました。
あといま「国指定重要文化財」って書くの楽しくなってきた。
双龍門の扉の龍神様。躍動感ある。ここまでディディールが残ってるの凄いですね。
左端から神楽殿・額殿・本殿(いずれも国指定重要文化財)。山中の僅かな土地に山肌と杉の巨木に抱かれるように立っているのが印象的で、昔の人々の山岳信仰感のようなものがうかがえる。
なんでもモノクロにすればエモくなるだろうという試みです。怒らないで……。
欄間だけでなく床下まで細緻な意匠が施されていて、古より寄せられていた信仰の篤さを思わせます。
隠しステージ、「榛名川上流砂防堰堤」
と、本堂・拝殿の裏の階段を降りていくと建物の壁に「→ 砂防堰堤 国登録有形文化財」なるそっけない案内板がありました。同行者の1人が治山・治水施設好き*3だったこともあり、ヨシ、行ってみましょう、ということに。
「クマ出没注意」の看板や「番所あと」の看板など見つつ川筋を辿ると。
見えてきました。
練石積みの実に見事な堰堤です。
数日続いた雨の後でもこの程度の水量であることが、この堰堤が治水ではなく砂防のための施設であることを如実に語っています。昭和30年から榛名神社などを土石流災害から守っている由*4
整備中の遊歩道のを登ってたどり着くのは
堰堤天端。作られて60年たち、堰堤の貯砂容量はすっかり使い切られています。さらに少し歩くと向こうにうっすらと何やら直立したものが見え……。
「うわ、めっちゃ雰囲気ある……」
「これ絶対暴力ちゃん*5が大好きなやつだ」
「霧の夜だけに動き回り、目撃した生き物をすべて死なせるオブジェクトにしか見えない……」
砂防堰堤内ということで土質の違いでもあるのでしょうか。普通の森林とはちょっと違った雰囲気の林が育ちつつあり、天候と暮れかけの薄い日差しが相まってなんだか『裏世界ピクニック』の裏世界に迷い込んでしまったかのような気分になってきます。
なお、帰ってから調べたところこれは「九折岩(つづらいわ)」という奇岩だそうです。
さらに日が暮れると、何気ない門前町の親子までこの感じ。霧の画を作る力強すぎる……
その後、特に怪異に会うことはなく下山。年度始めとは言えどようにこんなに人が少なくていいのかという伊香保温泉街を散策し、「石段の湯」で一風呂浴びて帰途へ。石段の湯は露天風呂こそないものの、お湯の印象がくっきりしていて、また空いているのでゆったりと入浴できて大変良かったです。晴れてると混むのかな?それとも温泉旅館街の立ち寄り湯ってちょっと時間遅くなるとこんなもんなんだろうか。
帰り道、車内で雑な会話が盛り上がり、勢いのままにうちで酒盛り→翌日昼間までダラダラ、といった流れになったのですが、それはまた別の話。